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アンドレアが着ているブルーのセーターは、アンドレアにとってはただのブルーのセーターだけど、ファッション産業を牽引する超一流であるミランダにはその「ブルー」(正確にはセルリアン)の背景にこれだけのストーリーがみえている。
だからミランダは、そのセーターについて、それが20世紀の巨大なファッション産業のなかで生み出された商品であるかぎり 、
“that lumpy blue sweater”
と正しく批評することができる。
ここで、アンドレアが着ているのがバーゲンセール品の安物セーターじゃなく、「おばあちゃんが編んでくれたセーター」だったらどうだろうか?
(中略)
世界の大多数のひとが求めているのは、そういう、「おばあちゃんが編んでくれた着心地のいいブルーのセーター」なのかもしれない。質が良くて、着心地もよくて、思い入れもあって、そこではべつにデザインが10年遅れてようと関係ないし、誰かにとやかく言われることもない、流行色とかデザインとかどうでもよい。ヒッピー文化ってつまりそういうことなんだろうし、インターネットの文化もそうなのかもしんない。
"批評の不在についての補足―アンドレアの着るブルーのセーターが本当に「ただのブルーのセーター」になること - 東京エスカレーターガール
大多数のひとが、思い入れのある個人的な物語を求めているのは、たしかにそうなのだろうなと感じる。
でも、その「物語」が個人的な物語か というと、ちょっと疑わしい。それこそ、産業的な要請とか政治的な要請とか、その他諸々の事情で作られたものを、個人的な物語だと刷り込まれているだけで はないか(という懐疑が、すくなくとも近代の超克に含まれていたはずである。)(たとえば、「おばあちゃん」と「アンドレア」の郷愁を帯びた関係性は特定 の家族観に依拠したもので、それは「アンドレア」の個人的な物語ではないかもしれない。)。
さらにいえば、80年代後半にみられた無印良品の成功を回顧するならば、「誰かにとやかく言われることもない、流行色とかデザインとかどうでもよい」という価値観すら、記号化して「流行」になってしまう点が、事態をより困難にしている。
無印良品は、(当時流行していたと聞く)DCブランドなどへのアンチテーゼとして定立された。つまり、ブランドという記号ではなく「無印」ではあるけれど「良」い「品」にお金を使おうという発想に基づいている。
でも、そういうアンチテーゼをよしとするライフスタイルの象徴として、無印良品は歓迎され、流行になってしまった。つまり、「記号がないという記号」を求める人たちがいたのである。
人の思惑がおよぶところに、記号論、意味論、ビジネス、政治はあり、もう「個人的な思い入れ」を後生大事にもっていくことはできないかもしれない。そういう諦念(ないし期待)が、現代「批評」の基調をなしていたと思うのだけれども(私の観測範囲が狭いだけ?)。
(via inf)
なんとなく「消費論ブーム」の論文の内容を思い出してしまった。
http://d.hatena.ne.jp/ced/20061110/1163210364
(via deli-hell-me)